【福岡の独自カルチャー深堀り】

7/1~15開催、観客300万人超えの博多の風物詩 『博多祇園山笠』~その魅力と秘密~

「山笠のあるけん博多たい!」━━━。かつて地元の菓子メーカー『洋菓子の欧州』が販売していた『伝統名菓 博多山笠』のテレビCMでのセリフは、博多祇園山笠を紹介した名言です。福岡・博多の夏の風物詩であり、博多っ子をはじめ観光客らを広く魅了する博多祇園山笠の魅力と秘密に迫ります。

【プロローグ】博多祇園山笠とは、そもそもどんなお祭りなのか?

【画像】博多山笠一番山笠大黒流(1938年)(公益財団法人福岡アジア都市研究所の所蔵)

「博多山笠 一番山笠大黒流」(1938年)『公益財団法人福岡アジア都市研究所』所蔵

「オイサ」「オイサ」の威勢のよい掛け声と共に締め込み姿の勇ましい男たちが、約1トンの『舁き山笠』を担いで勢い水を浴びながら、博多の街を駆け抜けていく━━━。

福岡・博多の街に夏の訪れを告げる博多祇園山笠が今年・2023年、4年ぶりの通常開催となる。
ユネスコ無形文化遺産であり、国の重要無形民俗文化財にも指定されている博多祇園山笠は、福岡市博多区のうち御笠川と那珂川に挟まれた『博多部』と呼ばれるエリアで執り行われているお祭りだ。

 

 

博多祇園山笠は、博多どんたく、放生会と共に博多三大祭の一つに数えられている
そして、博多の総鎮守である櫛田神社に祀られている須佐之男命(祇園宮)に奉納される神事として800年近い歴史と伝統を持つ。
7月に入ると、博多の街は山笠一色となり、例年300万人(主催者発表)もの観光客が、博多祇園山笠の見物に訪れる。

 

 

博多祇園山笠がもっと楽しくなる!10の謎解き!

長年の歴史や伝統に培われてきた博多祇園山笠のうんちくやこぼれ話、トリビアに触れると、興味や親しみが増してくる。
それでは、博多祇園山笠を巡る謎の解明に迫ってみよう。

 

 

 

【謎01】なぜ、博多祇園山笠は、始まったのか?

 

博多祇園山笠の起源について諸説があるものの、博多祇園山笠振興会では、一般的に広く知られている聖一国師が1241年(仁治2)、疫病除去のため施餓鬼棚に乗って祈祷水(甘露水)をまいたことを始まりとする説を採用している。
当時は神仏混淆の時代であり、災厄除去の祇園信仰と結びついて、独自の山笠神事として発展してきたものと考えられる。
1241年を起源とした場合、博多祇園山笠は2023年時点で782年の歴史と伝統をもつ神事となる。

 

 

【謎02】なぜ、博多祇園山笠の期間は、毎年7月1日~15日なのか?

 

祇園祭は毎年、71日の『吉符入』に始まり、31日の『疫神社夏越祭』で幕を閉じる。
一方、博多祇園山笠は、7月1日の『注連下ろし』に始まり、15日の『追い山笠』でフィナーレを迎える。

 

 

博多祇園山笠においてクライマックスとなる追い山笠は、旧暦を用いていた1872年(明治5)までは毎年、旧暦6月15日の夜明けに行われていた。
つまり、満月が西に沈み、東の空が白み始める頃に行われていたのだ。
日本では、1873(明治6)11日に太陽暦へ移行した。
「明治5(1872)123日=明治6(1873)11日」とする改暦は従来、旧暦で暮らしてきた当時の人々にさまざまな混乱をもたらした。

 

 

旧暦615日の行事だった博多祇園山笠の追い山笠は1873(明治6)以降、新暦6月に実施したり、旧暦6月で開催したりするなどの試行錯誤を繰り返した。
そして、1910年(明治43)以降は、現在のように新暦7月15日に追い山笠が行われるようになった

【画像】博多祇園山笠

『山笠発祥之地』碑(承天寺)

 

 

【謎03】博多祇園山笠の山笠は、一体いくつあるのか?

博多祇園山笠には、高さ1015メートルにも及び観賞用として市内各所に据えられる豪華絢爛な『飾り山笠』、そして文字通り「舁く(担ぐ)」ための雄壮豪快な『舁き山笠』2つがある。
今年・2023年は、常設の櫛田神社分も含めて13の飾り山笠が建つ。
一方、舁き山笠は土居流、大黒流、東流、中洲流、西流、千代流、恵比須流の七流がおのおの舁く。

 

 

もともと『流』とは、豊臣秀吉による太閤町割でつくられた町組織だ。
1587年(天正15)、戦火で荒廃した博多の復興を目指した太閤町割では、御笠川と那珂川に挟まれた1098カ町に柳町・寺町を加えた合計100カ町が格子状に配置された。
このうち当時、川の流れに沿った縦町筋の東町流・呉服町流・西町流・土居町流を軸に、横町筋の魚町流(福神流)・石堂町流(恵比須流)、そして州崎町流(大黒流)を組み合わせた七流73カ町が、博多祇園山笠に参加していた。
その後、呉服町流・魚町流に代わり、新たに中洲流・千代流が加わった。戦後の一時期、山笠を建てていたのは、13流もあったものの、現在は先述の七流である。

 

 

【謎04】博多祇園山笠に飾り山笠と舁き山笠の2種類あるのはなぜか?

福岡・博多では、1897(明治30)に電灯がともった。翌1898年(明治31)、福岡県知事が、山笠による相次ぐ電線切断事故を理由に山笠行事の中止を提議した。

 

1899年(明治32)に電話交換局が開業し、1909(明治43)には路面電車も開通していく中、従来の高い山笠を飾って置くだけの『飾り山笠』とする一方、追い山笠などには高さ4.5メートル程の『舁き山笠』を用いることになった。
その結果として、〝静〟の飾り山笠、〝動〟の舁き山笠に分化した。
なお、明治中期の電線架設によって山車を引き回すことから神輿中心へ移行した神事の一つに東京の神田祭がある。

【画像】博多祇園山笠

画像提供:福岡市

 

 

【謎05】博多祇園山笠での水法被に締め込み姿はドレスコードなのか?

江戸時代の屏風絵などを見ると、博多祇園山笠の舁き手は、ふんどし一本で上半身は裸、足元はわらじかはだしというスタイルだった。
1898年(明治31)、福岡県議会において電線の切断問題と共に裸体同然のスタイルが問題視されて、博多祇園山笠の廃止を求める案が出された。

 

 

廃止案に反対した存続派は、玄洋社の社長だった進藤喜平太から紹介された当時、『九州日報』の主筆だった古島一雄の助力で水法被を着用することで山笠廃止を撤回させた。
それ以来、現在まで水法被に締め込み姿というスタイルが続いている。
博多祇園山笠の期間中、当番法被は背広と同等の正装とされ、結婚式や祝賀会など公式の場においてもドレスコードとして着用を許されている。

 

 

【謎06】博多祇園山笠の掛け声「おっしょい」「オイサ」の秘密は何か?

博多祇園山笠の掛け声である「おっしょい」については、お汐井取りのときに「お汐井(おしおい)、お汐井(おしおい)」と言っていた掛け声が訛ったという説がある。
ゆっくり走る時の掛け声としても「おっしょい」は使われており、走るスピードが速くなると、掛け声を縮めて「オイサ」「オイサ」となったものとみられる。

 

なお、山笠の掛け声である「おっしょい」は、1996(平成8)に環境庁認定『残したい“日本の音風景100選”』(日本の音風景検討会選定)に「博多祇園山笠の舁き山笠」として選ばれた。

 

【画像】博多祇園山笠

 

 

【謎07】博多祇園山笠での櫛田入りが4時59分開始なのはなぜか?

博多祇園山笠での櫛田入りは、早朝5時の1分前である4時59分に一番山笠が山留からスタートする。
そして、櫛田神社境内の清道を回って奉納する。以後、二番山笠から『走る飾り山笠』の八番山笠まで5分おきに出発する。

 

 

櫛田入りにおいて一番山笠のみが、櫛田神社境内で『博多祝い唄(祝いめでた)』を歌うことが許されて、1分間の時間が与えられている。
このため、5時の1分前となる459分に一番山笠がスタートするのだ。
なお、八番山笠まで清道を回り終えると、櫛田神社境内において喜多流梅津社中の能楽師による紋付き袴姿での『鎮めの能』が舞われる。

 

 

【謎08】なぜ博多祇園山笠はタイムを競うレースのようになったのか?

博多祇園山笠は、櫛田神社の相殿に祀られている祇園午頭天王(神道では須佐之男命)に奉じる祇園祭の一つだ。

八坂神社の祭礼である祇園祭は1100年余りの歴史と伝統を有し、日本三大祭の一つに数えられる。

869年(貞観11)に全国各地で疫病が流行した際、勅を奉じて当時の66カ国にちなんで66本の矛を立て、祇園社から神泉苑へ神輿を送って、災厄除去を祈ったことが、祇園祭の始まりだった。

京都・八坂神社の祇園祭では、華美な山鉾巡行で町中を練り歩いている。かつて博多祇園山笠も京都の祇園祭と同様に流ごとに山笠の華美を競い合いながら、町中を練り歩いていた。

 

 

『櫛田社鑑』によると、江戸期の1687年(貞享4)、土居流が東長寺で休憩していた時、石堂流(現恵比須流)に追い越されるという〝事件〟が起きたそうだ。

そして、2つの流が抜きつ抜かれつのマッチレースを繰り広げたところ、商人や町人らに大いに受けたという。

この事件を契機にして、『追い山笠』が始まったとされている。

画像提供:福岡市

画像提供:福岡市

 

 

【謎09】博多祇園山笠の期間中、ご法度とされる食べ物とは何か?

博多祇園山笠の期間中、行事参加者の間では、キュウリを食べることをご法度としている。
その理由としては、「キュウリの切り口が、櫛田神社の祇園宮の神紋と似ているから」という説が最も有力だ。

 

 

櫛田神社では三神を祀っており、『素盞嗚尊命』(祇園宮)の紋、『大幡主命』(櫛田宮)の紋、『天照皇大神』(大神宮)の紋という3つの神紋がある。
このうち、祇園宮の紋とキュウリの輪切りの切り口が似ているということが理由になっている。

キュウリを食べないという習慣については、祇園祭を執り行う京都の八坂神社と関係する神社のある地域でも見られるという。
なお、「夏が旬であるキュウリを断ってまで祭りに懸ける」という意気込みをみせているという説もある。

 

 

【謎10】なぜ、博多祇園山笠は782年も続いているのか?

首記の謎について、博多祇園山笠振興会の武田忠也会長は次のような見解を示す。

 

武田忠也会長

 

博多祇園山笠が長年続いている理由としては、古くからのしきたりを守りながら、常に時代に合わせて山笠のやり方やありさまを変えてきたという点が大きかったのではないでしょうか。
たしかに明治時代になって、飾り山笠と舁き山笠に分かれることになりました。しかし、舁き山笠が登場したことによってスピード自体は速くなり、迫力も増したので、山笠人気は一層高まりました。
つまり、時代に合わせて変化し続けた結果、782年も続いているのだと考えます。

博多祇園山笠振興会の武田忠也会長

博多祇園山笠振興会の武田忠也会長

 

【エピローグ】博多っ子をはじめ観光客300万人らを魅了して止まない博多祇園山笠を楽しむ

今年・2023年の博多祇園山笠は、4年ぶりの通常開催となる。コロナ禍以前は例年、主催者発表で例年300万人もの観光客らが、博多祇園山笠の見物に訪れていた。

300万人の観光客、そして博多のおとこたちが夢中になる山笠の魅力とは、何か?」

この点について、博多祇園山笠振興会の武田会長は、次のように考える。

 

武田会長

 

観光客らにとっては、きらびやかな飾り山笠と迫力ある舁き山笠に加え、水法被に締め込み姿という珍しい祭りのスタイルも大きいのではないでしょうか。

現在、博多祇園山笠を執り行っていく上で中核を担っている人たちは、子どもの頃から町内行事として参加してきた面々です。
やはり、子どもの頃から山笠に参加していることが大事であり、子ども心に赤手拭への憧れを抱きます。
そして、尊敬できる先輩との出会いは大きく、さらに上を目指して精進していこうとします。

たしかに今日では、子どもの数は少なくなっているものの、彼らの姿勢を見ていると、心強く感じるものがあります。

 

 

 

782年もの歴史と伝統に培われてきた博多祇園山笠は、人々を魅了して止まないお祭りだ。
〝静〟から〝動〟へ徐々に移行していきながら、櫛田入り、追い山でフィナーレを迎える博多祇園山笠を心ゆくまで楽しみに行かれては、いかがだろうか。

 

画像提供:福岡市画像提供:福岡市

 

参照サイト

博多祇園山笠(博多祇園山笠公式サイト)
https://www.hakatayamakasa.com/

 

YOKA NAVI『福岡・博多を代表する祭り「山笠」と「博多どんたく」の楽しみ方』(2022年615)
https://yokanavi.com/feature/29244/

 

福岡市の文化財『博多祇園山笠行事 博多区』
https://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/cultural_properties/detail/119

 

福岡市博物館『博多祇園山笠展14 電線と山笠』(200765日~729)No.300
http://museum.city.fukuoka.jp/archives/leaflet/300/index.html

http://museum.city.fukuoka.jp/archives/leaflet/300/index02.html

 

山笠ナビ
https://www.hakata-yamakasa.net/

 

 

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編集者兼ライター
近藤 益弘
1966年、八女市生まれ。福大卒。地域経済誌『ふくおか経済』を経て、ビジネス情報誌『フォー・ネット』編集・発行のフォーネット社設立に参画。その後、ビジネス誌『東経ビジネス』、パブリック・アクセス誌『フォーラム福岡』の編集・制作に携わる。現在、『ふくおか人物図鑑』サイトを開設・運営する。

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