【福岡の独自カルチャー深堀り】   

5/3-4開催、観客200万人超えの「博多どんたく」〜その起源と歴史〜

ゴールデンウィークに開催される『博多どんたく港まつり』は例年、期間中に200万人余りもの観客らを集客します。博多どんたくの起源は、12世紀後半に始まった『博多松囃子』です。840年余りの歴史を有する博多松囃子の歴史や変遷をみていきながら、先人らの取り組みを学んでいきたいと思います。

今年も5月3日、4日開催!観客200万人超えのお祭り『博多どんたく』

【画像】『博多どんたく&松囃子』特集@Webマガジン『フクリパ』
画像提供:福岡市

『博多どんたく』とは例年、53日・4日の両日に開催される祭りであり、博多三大祭りの1つ。

『どんたく』という名称は、オランダ語で日曜日や休日を意味する『ゾンターク』(Zondag)に由来し、明治中期以降に登場する。

 

この博多どんたくの起源は1179(治承3)に平家への報恩のために始まったといわれる中世芸能『博多松囃子』にあり、さらには奈良・平安時代の宮中行事である踏歌にまで、その源流をさかのぼることができるといわれている。

 

福岡市民の祭り振興会では、「参加どんたく隊のべ約650団体、出場者約3万3千人、見物客約200万人、春のゴールデンウィーク期間中、日本で一番の祭りといわれるようになる」とする。

第62回(2023年)「博多どんたく港まつり」演舞台の開催情報は以下
https://www.dontaku.fukunet.or.jp/news/79/

 

GW観客数の〝東西の横綱〟は弘前さくらまつりと博多どんたく

【画像】『博多どんたく&松囃子』特集@Webマガジン『フクリパ』
画像提供:福岡市

1位『弘前さくらまつり』250万人(1日あたり16万人)
2位『博多どんたく港まつり』230万人(115万人)
3位『浜松まつり』180万人(60万人)
4位『ひろしまフラワーフェスティバル』160万人(53万人)
5位『角館の桜まつり』120万人(7.5万人)
5位『有田陶器市』120万人(17万人)……。
『ニッポン旅マガジン』(プレスマンユニオン)は、GW(ゴールデンウィーク)中に全国で開催されるイベントについて、主催者発表や地元新聞社調べ(警察発表など)のデータを元に例年の人出をまとめている。

 

GWでの人出ランキングでの第1位は、例年4月下旬〜5月上旬に青森県弘前市の弘前城跡にある弘前公園で開催される弘前さくらまつりの250万人だった。

続く第2位は、例年534日の両日に開催される博多どんたく港まつりの230万人だ。観客200万人超の弘前さくらまつりと博多どんたく港まつりは、いわばGWの人気イベントでは〝東西の横綱〟といえそうだ。

なお、今回のランキング調査では、7年に一度の善光寺御開帳(700万人)、肉フェスなどのグルメ系も含めた単発イベントを除外している。つまり、神事や桜まつり、陶器市などの伝統的な定期イベントに絞ったランキングとなっている。

 

博多どんたくの起源・は国の重要無形民俗文化財の「博多松囃子」

【画像】『博多どんたく&松囃子』特集@Webマガジン『フクリパ』
画像提供:福岡市

例年534日の両日、福岡市内では、個性的な仮装の老若男女がシャモジを叩いて街中を練り歩く
そして、市内各所に設けられた演舞台や広場で踊りや歌などを披露し、街がどんたく一色に染まる。

 

昨今のコロナ禍によって、2020年と2021年の博多どんたくは中止だった。
そして、3年ぶりに開催した昨年2022年の博多どんたくは感染症対策のため、明治通りでのパレードをはじめ演舞台での参加数などを減らして実施した。

その結果、昨年の人出は、例年の3分の1となる80万人だった。
今年、コロナウイルス感染症対策としての行動制限が大幅に緩和された2023年の博多どんたくでは、参加どんたく隊約650団体、出場者約3万3,000人、観客200万人余りを見込んでいる。

 

博多を代表する祭りである博多どんたく港まつりは、今から844年前の1179年(治承3)に始まったとされる『博多松囃子』が起源だ。

博多松囃子は2020年3月、国の重要無形民俗文化財に指定された。今年2023年の博多どんたくでは、「伝統を継承 どんたくの源流『博多松囃子』がゆく!」をサブタイトルとして打ち出す。

博多松囃子振興会の楢﨑尚弘会長は、博多松囃子について、下記のように語る。

 

博多松囃子は844年の歴史があり、博多祇園山笠よりも古いお祭りです。

江戸時代には、福岡藩主である黒田公を正月に表敬訪問する年中行事でした。


国の重要無形民俗文化財に指定されたことによって、松囃子そのものの素晴らしさに加えて、祭事で用いる用具の価値や重要性をあらためて実感しました。

 

博多松囃子振興会の楢崎尚弘会長(左)と石田聖一副会長(右)
博多松囃子振興会の楢崎尚弘会長(左)と石田聖一副会長(右)

 

12世紀後半に始まった博多松囃子は祝言を目的とした芸能

【画像】出典:大野城心のふるさと館所蔵『筑前国続風土記』(竹田文庫)
出典:大野城心のふるさと館所蔵『筑前国続風土記』(竹田文庫)

 

「博多松囃子は、福神、恵比須、大黒の三福神を中心とする行列と稚児舞から構成され、祝言を目的とした中世芸能の一つである」

文化庁『国指定文化財等データベース』では、博多松囃子に関する解説を掲載する。

博多松囃子の起源は、福岡藩の儒学者・貝原益軒著『筑前国続風土記 』(巻之四 博多)によると、「博多において正月十五日に松囃子という事を取行ふ。(略)重盛の歿後に及て、重盛公の恩恵を謝せん為に、正月に松囃という事をはしめける」と記す。
つまり、平重盛が没した1179929(治承3年閏729)以降に始まったことがわかる。

 

博多松囃子は以来、博多の地に根付いて発展していく。
中世に大陸と行き交った勘合貿易船の副使として博多に滞在した策彦周良は、日記『策彦入明記』において1539年(天文8)正月6、7日条などに松囃子について書き残した。

 

その後、博多の豪商だった神屋宗湛は、茶会記『神屋宗湛日記』の1595(文禄4)1029日条において当時、筑前国を治めていた小早川秀秋の命令で博多町民らが名島城に赴き、祝言としての松囃子を披露したことを書き記す。
なお、このときのお礼は、銭50貫だったそうだ。

 

博多商人・町人は江戸期、博多松囃子と共に殿様を表敬訪問!?

【画像】『博多どんたく&松囃子』特集@Webマガジン『フクリパ』
画像提供:福岡市

 

「福禄寿夷大黒天の形にこしらへ、馬にのせ、かうべの上に蓋をさしかざし、囃詞をとなふ。終りには小なる仮閣に車を仕つけ、小童をのせ、舞衣をきせ、車を引て、国君の宅に到り、猿楽の謡の曲節あるみじかき謡物をうたひ、笛ふき、大小の鼓大鼓を打て、祝言の舞をなさしむ。国君より酒肴を賜り退出す」

 

 

前述の『筑前国続風土記 』では、江戸時代の博多松囃子の様子も記載している。
当時の博多松囃子は正月15日に福岡城へ赴き、福岡藩主に表敬する行事だった。

 

松囃子の本体である福神、恵比須神、大黒天の三福神と稚児に続いて、博多の商人や町人らが趣向を凝らした出で立ちや出し物を演じることで同行した。
彼らは『通りもん』と呼ばれ、今日の博多どんたくでは先頭を行く三福神と稚児に続く『どんたくパレード隊』の元来の姿といえる。

 

博多銘菓として著名な『博多通りもん』の製造元である株式会社明月堂は、自社Webサイトにおいて、商品名の由来で次のように解説する。
「どんたく衣装に身を包み、三味線を弾き、笛や太鼓を鳴らして練り歩く姿・形を博多弁で『通りもん(とおりもん)』と言います」

 

藩主への表敬を終えた三福神・稚児・通りもんの一行は、福岡城を出て城下町・福岡を経て、商人の町・博多へ戻って行った。

 

そして、三福神と稚児は、神社仏閣や年行司、有力者宅などを訪ねて祝った
一方、通りもんの一行は、知人宅や商家などで演芸を披露し、その返礼として酒や食事などが振る舞われていたという。
このような博多松囃子による年始の表敬訪問は、明治維新後も続き、福岡知藩事だった黒田長知や有栖川宮熾仁親王を訪ねている。

 

明治初期に禁止された博多松囃子が『どんたく』として復活

1872年11月、「金銭を浪費し、かつ文明開化にそぐわない」という理由による福岡県からの通達で正月の博多松囃子は、博多祇園山笠と共に禁止された。

 

一方、明治政府は、制定した祝日を指す言葉として、オランダ語で日曜日を意味する『ゾンターク』(Zondag)を用いた。
祝日の中でも最も重要視されたのは、神武天皇が即位したとされる211日の紀元節だった。

その後、ゾンタークは、『どんたく』と訛って広まったという。

 

1879年に出版された『紀元節博福祝ノ評判』によると、「お祝いのどんたく仕りたく」「稚児・三福神のほか113組の通りもん有り、」との記載がある。
つまり、博多松囃子の復活として、1879年2月11日の紀元節に三福神、稚児、そして通りもんで祝ったことが記録として残る。
これらの経緯を経て、松囃子による祝い事を『どんたく』と呼ぶようになったと考えられる。

 

当初、松囃子は『どんたく』の名を借りて、211日の紀元節での祝賀に加え、1880年代後半からは鎮魂祭(招魂祭)などにも繰り出した。
1次世界大戦中の1915年に招魂祭が4月30日と5月1日の開催に決まると、松囃子とどんたくも開催日を同日に合わせた。
その後、日中戦争が勃発した翌1938年を最後に戦前の松囃子は途絶えた。

 

本来の年始行事は、いつからどんたくとしてGW開催になったのか?

【画像】『博多どんたく&松囃子』特集@Webマガジン『フクリパ』
画像提供:福岡市

 

太平洋戦争終結の翌1946年5月24日、戦後の焼け跡において松囃子が、子供山笠と共に『博多復興祭』として催された。
8年ぶりに復活した松囃子は肩衣を紙で作り、馬はハリボテを首から胸に下げた。そして戦災を免れた三味線や太鼓をかき集め、瓦礫の街中を練り歩いた。

 

1947年に福岡市、福岡商工会議所、商店街代表、市民有志らによって博多どんたくが、52425日に開催された。
1949年、前年に制定された新憲法の発布を祝し、憲法記念日の5月3日と翌4日の開催となり、今日に至る。
その後、1962年に『福岡市民の祭り振興会』が結成され、『博多どんたく港まつり』と現在の名称を改められた。そして、市民の祭りとして、広く一般市民から参加者を募るようになり、福岡市全体の祭りとして定着した。

 

一連の経緯を踏まえて、楢﨑会長は次のような見解を示す。

 

伝統文化である博多松囃子を後世に≪いかに守り伝えていくか≫という点が、大切だと考えます。

昨今のコロナ禍においても、昔ながらの旧態依然とした考えではなく、時代の情勢や社会の動向を見極めながら、≪いかにして続けていくか≫という姿勢や取り組みが大事でした。

国の重要無形民俗文化財に指定された博多松囃子の知名度を今後、もっと上げていきたいと思います

 

祭りは長年、地域で代々受け継がれてきた神事であり、貴重な地域資源の一つだ。

各地の風土や歴史に育まれてきた祭りは、観光面や関係人口づくりだけでなく、地域的な結束やシビックプライドの醸成に向けたアイコンとしても注目を集める。

幾多の困難や中断を乗り越え、今日なお継続する博多松囃子、博多どんたくを巡る先人らのしなやかでしたたかな取り組みや姿勢をいま一度学び直すべきではないかと考える。

参照サイト

『ニッポン旅マガジン』(プレスマンユニオン)
https://tabi-mag.jp/gwbig10/

福岡市民の祭り 博多どんたく港まつり
https://www.dontaku.fukunet.or.jp/about/dontaku/

文化庁『国指定文化財等データベース』
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/302/00000990

福岡県立図書館『筑前国続風土記』(竹田文庫)
https://www.lib.pref.fukuoka.jp/hp/gallery/H25/fudoki.html

福岡市総合博物館『紀元節博福祝ノ評判』
https://artsandculture.google.com/asset/program-of-commemorative-parade%EF%BD%A4dontaku%EF%BD%A4on-national-foundingday-in-1879-unknown/0gGEEYjudnYm1g?hl=ja

株式会社 明月堂『博多通りもんの由来』
http://www.meigetsudo.co.jp/menubook/menubooks/view/1

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編集者兼ライター
近藤 益弘
1966年、八女市生まれ。福大卒。地域経済誌『ふくおか経済』を経て、ビジネス情報誌『フォー・ネット』編集・発行のフォーネット社設立に参画。その後、ビジネス誌『東経ビジネス』、パブリック・アクセス誌『フォーラム福岡』の編集・制作に携わる。現在、『ふくおか人物図鑑』サイトを開設・運営する。

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