福岡で誕生した国民的アニメ“サザエさん”、豊臣秀吉がいなかったら生まれていなかった!のかも?

国民的アニメ「サザエさん」が福岡で誕生したことは、福岡市民であれば知らない人はいないほど有名なお話。作品の構想について語ることのなかった作者・長谷川町子さんは、百道浜の地で何を想い、何を考え、「サザエさん」の着想となったのでしょうか?その謎を、福岡テンジン大学の岩永学長が、思いもつかない「点と点」でつないでくれました。 (本記事は筆者の個人的な妄想に拠って作成されたものです。予めご了承の上、お楽しみください)

結論から言う。豊臣秀吉がいたからサザエさんが生まれた、とは言えない。

生みの親である長谷川町子さんに関する文献や情報を当たってもどこにも書いていない。

しかし、ここ「福岡のまち」に残る“点と点”を、時空を越えて繋いでみると奇妙な物語が見えてくる。

今回の記事は、この壮大なテーマを編集部に提案したことへの筆者の後悔の筆跡と、ここ福岡のまちでの数百年にわたる点が、サザエさんに繋がっているかもしれないロマンで、一杯のコーヒーくらいは飲めることを保証しよう。

サザエさんの誕生の地は福岡

さて、福岡のことについて詳しい読者は知っていることと思う。

サザエさん誕生の地はここ福岡である


写真:福岡市提供

作者は長谷川町子さん。1920年の戦前生まれで出身は佐賀県。福岡市内へ転居し、中央区の春吉小学校(当時は春吉尋常小学校)に通っていた。その後、1933年に東京へ転居したものの、第二次世界大戦の最中である1944年に疎開で再び福岡の百道へ転居している。

そして戦後すぐの1946年、新聞社からの漫画連載の依頼で生まれたのが「サザエさん」である。『百道の海岸を散歩しながら、国民的人気漫画「サザエさん」の登場人物サザエ、カツオ、ワカメなどの名前を発案しました。』と福岡市早良区のホームページにも記載がある。
https://www.city.fukuoka.lg.jp/sawaraku/sawaraku-tamatebako/miryoku/sazaesan/index.html

この「百道の海岸の散歩」中に、長谷川町子さんの頭の中で何が起きたのか?なぜ磯野サザエになったのか?まずは豊臣秀吉がいた戦国時代から見ていくことにしよう。

サザエさんの先祖は戦国時代にいた磯野家?

戦国時代で「磯野」と言うと、この時代に詳しい人ならご存知、ピンと来る人物がいる。

磯野員昌(いそのかずまさ)。
織田信長が天下統一を目指して、近江(おうみ)の国を治める浅井家と戦った「姉川の戦い(1570年)」で活躍。浅井家の武将として織田軍に突撃、信長のいる本陣近くまで切り崩した猛将として知られる。

さて、ここで1つ紹介したい事実がある。
サザエさんのご先祖様は武士の設定である。アニメ・サザエさんにも度々登場する、磯野波平と姿・声が瓜二つなご先祖様を見たことがある人もいるだろう。原作の漫画にも登場し、お彼岸でおはぎを38個食べてお殿様に褒められたという江戸時代の武士だ。名前は磯野藻屑源素太皆(いそのもくずみなもとのすたみな)という。

しかし、残念ながらこの「磯野藻屑源素太皆」という人物の細かい設定はなく、それ以外のご先祖様も登場がない。もちろん磯野員昌との繋がりは見つけることができない。

ところが、この磯野員昌の数代前、磯野家としてここ九州の筑前(主に福岡県)に流れてきた人物がいた。この人物は、福岡市と糸島市に跨る怡土(いと)城の主、原田家の家来となり、福岡の地で脈々と家を繋いでいたのだ。

福岡に存在した元武士の磯野家

今から10年ほど前に体験した記憶を紹介したい。

福岡県太宰府市にある、奈良時代の天智天皇が建立した観世音寺を訪れた。その観世音寺に隣接する「戒壇院(かいだんいん)」を歩いていたとき、2人組の観光客らしき女性にガイドをしている高齢な男性がいた。戒壇院とは、中国(当時は唐)から命がけで日本へやってきた名僧・鑑真和上が、日本で始めて授戒を行った場所に建っている寺のことである。


日本初の授戒が行われた地に立つ戒壇院

運良く一緒に話を聞くことができ、この戒壇院にある「梵鐘(ぼんしょう)」の解説を聞いていたときの話である。

梵鐘を寄進したのは、楠屋白木玄流。この白木玄流を資金的に援助した「楠屋」は、今の大名にある老舗醤油屋のジョーキュウ醤油の本家の屋号である。そして白木玄流の子は、その後「柏屋」の屋号で商売を始め、現在天神で醤油料理・商品を扱う福萬醤油へと繋がっている。

注目して欲しいのは、梵鐘の製作者の名前だ。


戒壇院の梵鐘前にある立札

「鋳物師 博多、礒野七兵衛正慶」と梵鐘前の立札に書いてある。礒野と書いて「いその」と読む。通常「いその」は磯野と書くが、ガイドの男性はこう解説していた。

「磯野の磯は、海のいそ。じゃあ礒野の礒は?丘のいそを指します。つまり琵琶湖です。この礒野七兵衛の祖先は、琵琶湖のある近江の国の武士をやっていた家なんです。」

そう、先に紹介した磯野員昌の数代前の磯野家の流れである。さらに解説は続く。

「この礒野家は、近江で戦に負けてこの筑前の地に流れてきたんですね。そして人が不幸になる武士をもう辞めようと転職を決意して、人を幸せにする仏像や農機具なんかをつくる鋳物師になったんです。その礒野家は名を代々“七兵衛”として、江戸時代にこの梵鐘をつくりました。」

こうして、元武士の鋳物師・礒野家として明治期まで脈々と続いていることが、2007年に福岡市の市指定文化財になった「礒野家由緒書・礒野家系譜」に書いてあるそうだ。

二代目福岡市長の名が磯野波平と一文字違い!

鋳物師となった礒野家だが、そこは戦国時代。大名同士の戦いで焼け野原となった博多の町を、時の権力者となった豊臣秀吉が1587年に復興させた。俗にいう「太閤町割り」である。このとき、再び博多で鋳物業を再開し、博多における鋳物業の中心的存在になっていくのが礒野家である。

江戸時代に入り筑前52万石を治める黒田家より、1637年に起きた島原・天草一揆(島原の乱)で、礒野家は石火矢製作などを命じられている。その功績もあり、以後、礒野家は黒田家お抱えの商人として栄え、江戸時代後期には礒野式と呼ばれる農機具が大ヒット。その商圏は日本全国に留まらず、アジアにまで広がっていたという。

そして1893年(明治26年)、この礒野家から二代目福岡市長が誕生している!

福岡市のホームページにはその名前“磯野七平”としっかりと書いてある。そう、サザエさんの父親である“磯野波平”と一文字違いのなのだ。

※礒という字の礒野家と、磯という字の磯野家の記述について
様々な文献を調べてみると、どちらの字も使用していたようである。福岡市のホームページ「歴代市長」には“磯野七平”で記載があることから、以後“磯”で統一したい。
https://www.city.fukuoka.lg.jp/shisei/profile/03.html

では、磯野七平さんが磯野波平のモデルになったのか。実はここがわからないのだ。磯野七平さんが福岡市長に就任したのは1893年、長谷川町子さんがサザエさんを着想した百道浜での散歩は1946年、実に50年ほどの時間差があるのだ。

はたして、長谷川町子さんは磯野七平さんの存在を知っていたのか?本当に50年を埋める点が存在したのか?繋がっていたことを前提に、ここから先は完全に妄想であることを先に延べておく。

岩永的完全妄想サザエさん構想秘話

長谷川町子さんは地元新聞社より依頼され、漫画のイメージを考えるために家からすぐそばの百道浜で散歩をすることにした。

海岸を歩きながら目につくのは、砂浜に打ち上げられたワカメ。それを見て過去1週間で食べたサザエやカツオ。そうだ、これらを家族としよう。なんなら、一番美味しかったサザエを主人公の名前にしよう。

長谷川町子さんは、さらに海岸線を歩きながら通っていた春吉小学校時代を想い出した。

そうそう、当時は男勝りのワンパクで、よく喧嘩をする相手がいた。彼の家は商売をしていて裕福、ご先祖様は武士、さらにお爺さんが福岡市長だと、いつも偉そうにしていたのが気に食わなかった。

彼の名前は「磯野」、海の名前にふさわしいじゃないか。磯野サザエ、磯野カツオ、磯野ワカメ、うん、響きも良い。そういえば磯野くんの家は、代々「磯野七平」と言っていた。よし、磯野家の大黒柱は磯野波平にしよう。

散歩を終え、自宅に戻ってきたときには漫画の登場人物が揃っていた。かもしれない。

すでに亡くなられている長谷川町子さんは、多くの漫画作品を残しているが、それらの着想を公に話すことはほとんどなかったという。現在わかっているのは、1989年にアジア太平洋博覧会(通称よかトピア)の開催に向けて埋め立てられる前の百道の海岸線を、長谷川町子さんが散歩していたときにサザエさんを着想した、ということだけである。

2020年に長谷川町子さん生誕100年を迎えた

そんな所縁もあって、百道の道路に「サザエさん通り」という名前が付けられ、「サザエさん発案の地記念碑」ができ、2017年にはサザエさん通りに面する西南学院大学の前に「町子先生とサザエさん」の銅像も建てられた。福岡タワーは毎年5月後半に「サザエさん通り」誕生を記念したイルミネーションまで実施している。

そして2020年に長谷川町子さん生誕100年を迎えた。

真実は誰にもわからないものの、豊臣秀吉の博多の町復興がなければ、現代の山笠の形も変わっていたかもしれないし、サザエさんも誕生していなかったかもしれない。

今までの記事でも紹介してきたように、この地では2000年以上も人が行き交い、交流してきた痕跡と、人の気質にまで染みつく都市のDNAがある。これらの歴史ある蓄積と人の交流がある限り、魅力的なコンテンツが生まれる都市であり続けられるのではないだろうか。
(福岡のDNAについては時代の最先端が入ってくる都市に根付く“DNA”とは?に詳しい)

ぜひ、福岡にまだまだ埋まっている物語を、あなたも発掘してみてほしい。

◆サザエさん通り

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福岡テンジン大学 学長
岩永 真一
福岡市で生まれ育った生粋の福岡人。就職氷河期世代で内定ゼロで社会に出るも、天神でゴミ拾いをするNPOグリーンバードに出会い参加し、街をつくる人たちと出会い人生が変わる。2010年に福岡市と共働で「学びで人と街をつなぐ大学」の福岡テンジン大学を立ち上げ学長を務める。

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