(仮)天神二丁目南ブロック駅前東西街区プロジェクトの事業概要
画像:(仮)天神二丁目南ブロック駅前東西街区プロジェクト資料より
駅と直結する利便性を活かした「ひとを中心とした、歩いて出かけたくなるまち」の実現に向けて━━━。
福岡市の都心再開発『天神ビッグバン』の起点である天神四つ角。
その西南部に位置する福岡パルコ本館・新館(東街区)~新天町ビル(同)~西鉄福岡駅ビル(同)~新天町商店街(西街区)の一帯エリア約2万2,000平方メートルが、都心再開発に向けて動き出す。
同エリア内に立地する新天町商店街商業協同組合、株式会社新天町商店街公社、株式会社パルコ、西日本鉄道株式会社、株式会社三井住友銀行の5者は、『天神二丁目南ブロック駅前東西街区都市計画推進協議会』を設立。
そして、同協議会では、(仮)天神二丁目南ブロック駅前東西街区プロジェクトについて検討してきた。
同プロジェクトでは、現状細分化されている街区を再編し、敷地を一体化していくことで大街区化を図っていく。
そして現状、歩行者と自動車が交錯する交通環境の改善を図ると共に駅前での滞留や賑わい・憩い空間不足の解消を目指す。
安心・安全な歩行者ネットワークの構築と賑わいのあるまちづくりを実現していくために東西街区が〝共働〟で整備し、複数街区にまたがった段階的で連鎖的なプロジェクトの実現を目指す。
天神二丁目南ブロック駅前東西街区都市計画推進協議会では2022年11月、天神ビッグバンボーナスの取得に向けて福岡市への計画概要書を提出しており、その際に発表した資料には、次のように記載されていた。
天神二丁目南ブロック駅前東西街区都市計画推進協議会
なお、開業時期をはじめとするスケジュールについては今後、変更になる可能性があるとする。
戦後の焼け野原の中から復興した新天町商店街
「福岡市の再建はまず商店街建設から」━━━。
福岡大空襲で焼け野原となった福岡・博多の地において西日本新聞社は終戦後、郷土再建活動案の一つとして西鉄福岡駅付近での商店街建設案を打ち出した。
1945年12月22日、戦後復興の第一弾として、新天町商店街(西日本公正商店街)の起工式が開催された。
当時、天神四つ角の西南部は旧福岡高等女学校の敷地があり、土地と建物を組合が所有・管理する方式で新しい商店街が誕生した。
その商店街の名称として、「新しい天神町を創る」という思いから新天町と命名されたという。
翌1946年8月に一部店舗がオープンして同年10月15日に全店揃って、戦後初となる本格的な商店街である新天町商店街の落成式典と創業祭を開催した。
「博多の花道」のキャッチフレーズでスタートした新天町商店街は1948年、『新天ステー新天音頭』のレコードが完成した。
さらに1949年7月、博多祇園山笠の飾り山笠が、初めて博多部以外で新天町商店街に登場した。
そして、1950年9月には、新天町商店街に西日本で初となるガラスアーケードが完成して、「晴れても降っても新天町」というキャッチフレーズも誕生した。
また、新天ステージでは、ラジオ放送によるNHKのど自慢の中継も行われたこともある。
今日、アーケード付き商店街の新天町商店街は、北通りと南通りの2通りと新天町地下『ファーボ』(Favo)で構成されている。
新天町商店街全体の敷地面積は、約8,300平方メートル。商店街自体は、東部(地下1階・地上5階建て)、中央部(3階建て)、西部(同)の3棟の建物で構成されており、延床面積は約2万5,900平方メートルとなっている。
参照サイト
(仮)天神⼆丁⽬南ブロック駅前東⻄街区プロジェクト〜駅と直結する利便性を活かした「ひとを中⼼とした、歩いて出かけたくなるまち」の実現に向けて〜
https://www.nishitetsu.co.jp/ja/news/news-20221130-2/main/0/link/22_077.pdf
新天町商店街Webサイト『新天町物語』
http://www.shintencho.or.jp/story.html
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