Fukuoka Art Nextの開始とアジア美術館の拡充案
福岡市は2022年度より、「Fukuoka Art Next」を開始した。これは、アートのスタートアップ(アーティストになりたい人や若手アーティストの成長支援)と市民のウェルビーイングの向上を行う事業の総称である。
詳細は上記サイトをみていただくとして、主に9月中旬に開催される「ART FAIR ASIA FUKUOKA」と会期を合わせ、福岡市美術館、福岡アジア美術館のほか、旧舞鶴中学校校舎を活用して設置されたArtist Cafe Fukuoka(以下、ACF)や福岡城等で展開される展覧会「FaN Week」という形で一般には知られつつあるだろう。ACFは、本事業の中核施設として、アーティストやアーティストを目指す人々の相談や企業とのマッチングのための常設窓口として機能している。
2019年3月21日には、この年に開館40周年を迎えた福岡市美術館がリニューアルオープンし、一方で今年3月6日に開館25周年を迎えた福岡アジア美術館の施設拡張案のニュースも出た。後者は警固公園地下の駐車場跡地を有力候補として4月より本格検討が進むようだ。もしこれが実現すれば、天神地区の中心部に美術館が誕生することになり、文化的ハードの弱い同エリアの活性化に貢献することだろう。
中洲川端の博多リバレインの7、8階にある同館は、ビルイン施設とはいえ、規模的にはそれほど小さな美術館ではないが、5000点を超える所蔵作品には現代美術が相当数含まれ、しかも映像インスタレーションやサイズの大きな絵画や彫刻が代表的な作品なので、しっかり見せようとすれば、それなりに展示室の面積を占めることとなり、おのずと展示作品数は限られ、対象としているアジア23か国・地域の美術の全容を展示で示すことが難しくなってきている。
アジア美術館はこうした収集・展示のほかにも、アーティスト・レジデンス事業を開館当時から行っている。これは、かつてはアジア地域のアーティストを年に数名招聘するものであったが、2022年のFaNの開始によって規模が拡大し、公募から選考された福岡県内および国内外のアーティストを1年に8~9名、Artist Cafe Fukuokaのスタジオに招聘し、3か月程度の滞在制作を行っている。これもある意味、アジア美術館の事業の拡張と言えるのではないだろうか。
福岡アジア美術館外観
さてこうしてハード面、制度面での整備拡張が進みつつあり、ACFでのアーティスト支援もあり、またアートフェアも定期的に開かれる、とこれだけ見れば、福岡のアーティストたちが刺激を受けないはずがない、とひとまずは思ってしまうのだが、福岡で活動する当のアーティストたちはどう受け止めているだろうか。というのも、あくまで肌感ではあるが、地元アーティストの自前の動きがまだ弱いように感じるからだ。例えば、私が福岡市美術館勤務時代の2013年に福岡県立美術館の学芸員と共同企画・開催した「福岡現代美術クロニクル1970-2000」の図録の巻末年譜を見れば、1970年以降、2000年ごろになるまでに、アーティストの自主的な展覧会が、グループ展、個展含めて相当数開かれてきたことがわかる。
「福岡現代美術クロニクル1970-2000」ポスター/デザイン:植松久典 (画像提供:福岡市美術館)
私が勤務し始めた30年前なら、行政が地元アーティスト支援を積極的に行うなどまず考えられなかった。当時活発に福岡を中心に発表を行っていたアーティストや画廊主からは、市や美術館からの支援の無さについて不平不満が述べられるのが常であった。まだ20代だった私自身も、彼らからそんな嫌味を直接ぶつけられたりもしたものだ。
そうした経験を持ち、なおかつ30年にわたり地元のアートシーンに触れてきた私からすれば「あの頃と比べればかなりマシになったと思うのだが、これをチャンスととらえてはどうか」と思うのだ。
福岡アートシーン30年周期説?
ここで私は「福岡アートシーン30年周期説」をとなえてみたい。福岡市のアート状況が、だいたい30年を周期にして隆盛を見せている。
まず、今から約30年前、つまり1990年代前半あたりに戻ってみよう。天神ビッグバンで姿を消したIMSビルが1989年に竣工するなど、天神再開発が活発だったころである。
天神の街をそのまま舞台とした野外美術展「ミュージアム・シティ・天神(以下、MCT)」が1990年に開幕し、以後隔年で開催された。都心の野外で開催される現代美術展は当時としては非常に珍しく、地元のみならず国内外でも注目された。この展覧会には、福岡、日本、海外(欧米、アジア)のアーティストが数多く参加した。蔡國強や草間彌生といった、現在では国際的な大舞台で活躍しているアーティストが参加していたことも特筆されてよい(ちなみにこの時の2人の出品作品は、それぞれ福岡アジア美術館、福岡市美術館の所蔵作品となっている)。
※草間彌生『南瓜』https://www.fukuoka-art-museum.jp/collection_highlight/2656/
母里聖徳《ドラムマン》 1990年 (警固公園での展示)/写真提供:ミュージアム・シティ・プロジェクト事務局
また、当時は福岡市美術館で開催されていたアジアの現代美術展とMCTとの連携もここで指摘しておきたい。1994年の「第4回アジア美術展」とMCTの会期が重なり、アジア展の出品アーティストがMCTにも出品するなどして、異なる展覧会同士の連携が行われた。この時、アジアから多数のアーティストが来福し、市民や地元アーティストと直接交流した。
このMCTの企画の中心となって推し進めたのが、IAF芸術研究室を主宰していた山野真悟であり、彼を支えたのが宮本初音である。彼、彼女はいずれもアーティスト出身であり、ある意味このMCTは、アーティスト自身が企業や行政を巻き込んで実現したムーブメントであったと言って過言ではない。
先述したIMSにて1989年より開催されていた「九州コンテンポラリーアートの冒険」も特筆される。これは現代美術でのデビューを目指す九州の若手アーティストを対象とした展覧会で、1991年から公募となり、入選したアーティストの作品はIMSビルの各フロアに展示された。これも、街の中での未知の観客と作品の出会いを演出していたといえるだろう。
1990年代前半からさらに30年さかのぼると、1960年代前半あたりに行きつく。この頃、福岡には「九州派」という前衛グループが存在した。
九州派は、桜井孝身とオチ・オサムという2人の画家の出会いを契機に、彼らの周りに若い画家たちが集まって1957年に結成された。当時の福岡県庁の外壁を使った野外展の開催や、東京都美術館で開催されていた「読売アンデパンダン展」への出品、東京の画廊でのグループ展の開催など、地方から東京に打って出る、という明確な戦略を持ちつつも、一方で審査のない公募展である「九州アンデパンダン展」を組織して、公募展中心の地元アートシーンの変革に着手するなど、単なる画家集団の枠を超えた活動も行った。彼らが地元で展覧会を開く際の会場としたのが、西日本新聞社講堂や岩田屋ホールであった。また九州派の会合は、現在の中央区今泉にかつて存在した農民会館で行われた。
当時は、画家になるといえば、二科展や日展といった公募展に出品してその会員になることを意味していたから、このルートから逸脱して画家としてやっていくことはほとんど考えられない時代でもあった。一方で、東京や関西には、前衛美術のグループが誕生してもいた。九州派は、東京で地方発の前衛を発信しつつも、福岡という美術後進地に、前衛を芽吹かせようともしたのである。
時代の状況も後押しした。当時は大牟田の三池炭鉱の労働争議がクライマックスを迎えつつあり、福岡市でも労働運動は盛んであった。九州派のメンバーには、アーティストに専従するものはおらず(これは今も変わらない?)、多くが福岡市内の企業の職員であり、組合運動に参加する者もいた。特にリーダー格の桜井は西日本新聞社に所属し、同社の労働組合活動に大きく関与していた。こうした時代の熱気は九州派のエネルギー源として重要であった。
「グループ Q・詩科 アンフォルメル野外展」の宣伝パレード(博多大橋上を川端方面に進む) 1957年/*グループQは九州派の別称。九州派は、詩人グループ「詩科」と合同し、旧福岡県庁(現在、アクロス福岡と天神中央公園があるあたり)の外壁を使って野外展を開いた。 (画像提供:福岡市美術館)
FaNは次の波か?
九州派からMCTへの動きの間には約30年の時間が横たわっているが、共通点がいくつかある。
①変革期の天神を舞台としていた。
九州派のころは、天神周辺の道路舗装が進み、1990年代初頭には天神再開発で多くのビルが建て替えられた。つまり都市の変革のエネルギーと、新しいアートの動きが連動していたのである。アーティストたちが天神を舞台とした理由は、なんといっても不特定多数の多くの人々に作品の実物を見せることができたからだろう。九州派の時代は美術館すらないし、MCTのころは、美術館が今ほど現代美術の展覧会開催や収集に積極的でなかった。ある意味、変革期の都心の屋外は、異質なものでも受け入れる余地のある、美術館展示室のような中性的な場所でもあった。
②アーティストが主導した。
地方都市である福岡に前衛美術、現代美術を根付かせようと必死になっていたアーティストは、制作もしながら、自身の発表の場所をも見つけ出し、場合によっては自ら作り上げようとすらしていた。その場所探しにおいて、意外にも天神がうってつけだったのは①に書いた通りである。
MCT開始から約30年後、Fukuoka Art Nextが始動した。この30年周期論が正しければ(笑)、FaNの一連の動きには期待してよい?ということになるのだが、上に指摘した2点が欠けている。①の変革期の天神、というタイミングは当てはまるが、現在の天神は、FaNの主要舞台にはなっていない(「福岡ウォールアートプロジェクト」が天神でも展開中ではあるが、天神に限定した展開ではないし、MCTのような都市空間への「割り込み」感が、ない)。それ以前に、現在の天神は、1950年代後半や1990年代前半のように異質な存在である美術を受け入れる度量を持ち合わせているかどうか、もまた大きな課題だろう。②に関しても、現在主導しているのは行政側であり、九州派やMCTのような「下から」突き上げるような表現欲求が伴っていない、とも言える。
では、FaNが30年目の新しい波になりえないかと言えば、それは未知数だ。九州派やMCTの時代と現在が大きく異なるところは、SNSの発達と、アートフェア(つまりアート市場)の存在である。おそらく、若いアーティストの中で、SNSを活用していない者はほぼいないだろう。かつてより容易に自身の作品や活動を発信でき、画廊や学芸員に簡単に情報を届けることができるようになった。かつてなら、苦労して東京に出て展覧会を開いたり、地元で数多く展覧会を開いたりすることが情報発信であったから、これは大きな違いである。
ART FAIR ASIA FUKUOKA 2023 会場風景
それと関連するが、もう1つのアート市場の面でいえば、現在はアーティストと市場が直結するルートが存在するということだ。ここにもSNSが大きく作用している。無理して展覧会を開いたり、作品を他人に見せたりする前に、買い手がついてしまうことも生じている。これもかつてはあり得なかったことだ。
上記のように考えると、見知らぬ観客に作品を見せる天神という都市空間、アーティスト同士が直に交流し、作品をお互いに見せあって批評し合うとか刺激を受けるといった交流の場としての展覧会はもはや必要条件ではなくなってきているのかもしれない。とすれば、アーティストが集まって展覧会を企画するという(かなりめんどくさい)作業も不要ということになる(昔のアーティストは自分でカネ出し合って展覧会やってきたんだよ、と若いアーティストに説いたところで「そりゃご苦労なこった」と一蹴されそうな気がする…)。
しかし、ここで重要なのは、「アーティストは何を伝えたいか、どのくらい切実にそれを伝えたいか」ではないか。SNS程度で済ませられるのであれば、それはそのレベルでしかない。作品をじかに見る、見せる、というリアルな行為抜きには、アーティストの良しあしは語ることはできない、という原点は、今後も揺るがないだろう。アートフェアが多くの来場者を集めているのは、やはりそうした「本物」との出会いを求めているからではないか。そして、美術館の存在もますます重要になる。こうした本物との出会いを促進するきっかけとしてFaNが機能していけば、上記①、②を満たさなくとも、別の形で新しい波になるのではないか。そう期待して、本稿を閉じたい。
(文中、敬称略)