おしまイムズ、スペシャル対談

【イムズ閉館に寄せて】イムズが育んできたこと、未来の天神に残したいこと。

2021年8月31日、32年の歴史に幕を閉じるイムズ。閉館のカウントダウンが始まる中、イムズの立ち上げに携わった辻正太郎氏と設計を担当した鯵坂徹氏によるフクリパ独占対談がイムズホールで行われました。聞き手は福岡テンジン大学の岩永学長。イムズの誕生秘話とともに、これまで福岡の人々を魅了し続けてきたその理由について紐解きます。

 2021年8月31日、32年の歴史に幕を閉じるイムズ。流通業界が盛り上がっていた時代にあえて「モノ」より「コト」にこだわり、情報文化を発信してきました。珍しいテナント、打ち出す広告、企画するイベント…とイムズが手掛けてきたことは刺激的だけどどこか洗練されていて、私たちにとってはまさに憧れの存在。そんなイムズはどのように作られ、天神の街にどんな役割を果たしてきたのでしょうか。
 閉館のカウントダウンが始まる中、イムズの立ち上げに携わった辻正太郎氏と設計を担当した鯵坂徹氏によるフクリパ独占対談がイムズホールで行われました。聞き手は福岡テンジン大学の岩永学長。イムズの誕生秘話とともに、これまで福岡の人々を魅了し続けてきたその理由について紐解きます。

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登壇者プロフィール
 
辻 正太郎 氏 三菱地所でイムズのコンペから携わり、開業後もイムズの事業戦略や三菱地所アルティアム、九州コンテンポラリーアートの冒険、ミュージアムシティ天神等数々のアート企画を立ち上げに関わった。
 
鯵坂 徹 氏 三菱地所でイムズの設計を担当し、福岡市都市景観賞、商環境デザイン賞、照明学会賞を受賞。現在は鹿児島大学大学院 理工学研究科教授として教鞭を振るう。
鹿児島大学ホームページ
 
聞き手 福岡テンジン大学 学長 岩永 真一

天神を次のステップへ導いた、黄金色に輝くビルができるまで

岩永:今日はイムズに込められたコンセプトや、それがどう息づいてきたかなど伺っていきたいと思います。そもそも福岡市のコンペでは、天神ファイブの跡地をどのようにして欲しいというマスタープランがあったのでしょうか?
 
辻:まずコンペの前に有識者の懇談会が開かれ、天神の将来像と天神に必要な機能について提示がありました。コンペではそこを読み込んで、具体的に表現するのが提案の大きなポイントでした。「やりたいことやってみろ」と会社に言ってもらえて提案したのですが、それが後々自分の首を締めることに(笑)。
 
岩永:実際にはどのようにコンセプトを固めていったのですか?
 
辻:九州の都心として天神が次のステップへ脱皮していくためには、情報や文化、国際性などが欠けていました。都心の機能とはヒト、モノ、コトが集まり、交流して新しいものを生み出すこと。それをビルの中でどうオペレーションしていくか、福岡の市有地ということで市民の資産として開発する中、九州のためにどうしたらいいかを追求していきました。


辻正太郎氏


鯵坂徹氏

鯵坂:私はコンペに当選してからの参加でしたが、入社3年目の新人だったので、まず図面を解読することから始まりました。それまで低い建物しかやったことなかったから、エレベーターも初めての経験でした。
 
岩永:途中で何度も仕様変更を行ったと聞きましたが…。
 
辻:コンペのプランはあくまでも絵だったから、実際に設計図にしてみると提案したものができっこなくて。そういうのが数百ヶ所もあったので、そのひとつひとつに変更申請を出して、市の承認を取らなければなりませんでした。
 
岩永:数百ヶ所ですか!絵から内装など細かいデザインに落とし込んでいく中で、どのように進めていったのでしょうか?
 
鯵坂:三菱地所としては商業施設を作るのは初めてでした。だから、まず辻さんを含めた都市開発と設計のメンバーで代官山に集合して、ゼロからトレンドを勉強しました。床屋でなく美容室に行け、ネクタイはして来るななんて言われてね(笑)。


↑ コンペで提案した絵と実際に完成したレストランフロア。※現在はさらに仕様変更

辻:あの色使い真似したいな、あの照明いいねというのを同じ体験をしながら議論を進めて、みんなで作っていった感じです。
 
岩永:いろんな人の意見が混ざるようなチームづくりをしていて、当時はインターネットもない時代で膨大な時間を費やしたと思います。
 
辻:コンペがあったのが1985年、1989年のよかトピアまでに間に合わせることも条件だったので、1年くらいで設計変更や民有地の問題などいろんなことを解決しないといけなくて、とてもタイトなスケジュールでした。もうちょっと時間があったらもっといいビルができたかもしれない(笑)。
 
 
岩永:ちなみに黄金色に輝く建物は提案の時から決まっていたのでしょうか?その他、こだわった部分についても教えてください。
 
鯵坂:金色というのは最初から決まっていて、建築では下品になってしまうし、景観的にも良くないのでとても悩みました。金色の建物をいくつか見に行って、これならいけると有田焼で白金色のタイルを焼いていただきました。それと、吹き抜けは他にはないものを作っている感覚はありましたね。女性に親しまれるよう吹き抜けに面した部分はすべて薄いピンク色系の色調にしたり、光によって見え方が変わってくるので、無味乾燥にならないように照明にもこだわりました。
 
岩永:建築の知識がなく眺めても、やっぱりイムズは独特でした。鯵坂先生の「無味乾燥にならないように」という考え方は元々持たれていたのですか?
 
鯵坂:それまでの建築というのは、モダニズムといってコンクリートの打ちっ放しのような冷たい印象のものが多いのです。イムズの時はポストモダンが流行っていて、少しおちゃめというか、そういったある意味表層的な建物が当時好まれていて。私が設計する時は人が作った温かみのようなものを大事にしていました。

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 天神ファイブの跡地をめぐるコンペでは、地元資本VS東京資本と報道されましたが、お二人的には「天神を良くしたい」「福岡市民によって良いものを作りたい」という想いだけで、地元や中央という意識は全くなかったそうです。
 その当時、辻さんや鯵坂さんを含む立ち上げメンバーは30代前後。そんな若いチームによる初めての商業施設づくりだったからこそ、足で稼いだ情報だったり、どこか手作り感があったりなど、「イムズ」という唯一無二の魅力を持つビルを作ることができたのかもしれません。

イムズが示した商業ビルの、新しいカタチと天神の相乗効果

岩永:実際にイムズが完成した時の、福岡のみなさんの反応はいかがでしたか?
 
辻:吹き抜けは一番の見所で、見上げた時は私たちも「おおっ」と思いましたね。来館されたみなさんにも素敵だなと思ってもらえたんじゃないかな? スパイラルエスカレーターも人気でしたが、シースルーエレベーターに乗りに来る人の多さには驚きました。遊園地の乗り物のように行列ができて、床が落ちるんじゃないかと心配になったくらい(笑)。
 
岩永:まさにアトラクション感覚ですね(笑)。私もまちづくりを行っていますが、イムズが天神に果たした役割や存在感は大きいですし、まちってこうだよねという思想のようなものをイムズから感じています。


↑1989年4月12日、バブル真っ盛りの頃にグランドオープン。

辻:当時はビル開発というより“九州おこし”をしようと、「時代波震源地」というテーマを掲げました。その時代時代の考え方を表現して九州中に発信する場所でありたいと、オペレーションや広告表現もメッセージ性の強いものを作っていて、だからこそ“意志を持ったビル”と思ってくれる人が多かったのかもしれません。東京に戻って丸の内の再構築をした時もイムズを参考にしましたし、私の中で「イムズが長男、丸ビルが次男、タピオ(仙台)が三男」だと思っています。
 
 
岩永:イムズは誰かひとりのデザインや思想でなく、みなさんの集合知がカタチになっているからビル自体に余白を感じられ、いろんな人が集まりやすく、多様性があるような気がします。
 
辻:私はビル自体をメディアと捉えています。テレビ、新聞、ラジオ、雑誌というメディアの力も借りて一緒に情報発信していくことが重要だと思っていて、メディアからも意見やアイデアをもらいながら一緒に作り上げてきました。イムズはそういう方達の想いも込められたビルであり、みなさんが面白がって色々使いこなしてくれたからこそ、いろんな表現が発信できたのだと思います。

岩永:当時、天神にある他の商業施設は意識されていましたか?
 
辻:ソラリアプラザは同じ時期にできたビルであり、同じように吹き抜けやイベントスペースもあったので、イベントや販促の仕方などは常に気になりました。でもやっぱり一番は、「イムズらしさ」をどう表現するかというのを大事にしていましたね。
 
鯵坂:商業も建築も意識していたと思います。ソラリアプラザってすっきりしていてモダンじゃないですか? 本来はその方が格好良いのですが、イムズは建築的にも入っているお店的にもどこかで見たようなものがなかったから、商業施設としてすごく対比的になった気がします。
 
 
 
岩永:ソラリアプラザがあったからこそ、イムズらしいポジションを作れたというのがあったんでしょうね。
 
辻:周辺にはすでにコアやビブレがあって物販が充実していたから、コンペで提案する必要はありませんでした。イムズは雑貨などライフスタイルでいこうという点で差別化ができていたし、できるだけ新しいものを取り入れようといろんな形でチャレンジしていました。3階から8階までは「コミュニケーションポイントゾーン」としてショールームを構成し、日本にはない店揃えになっていたと思います。
 
鯵坂:当時は特急を使って九州各地から天神にくる“かもめ族”“つばめ族”という言葉もあって、商業施設は競争するんじゃなく、いくつかあることで相乗効果が生まれるんだということも勉強になりましたね。

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 “ビルをメディアとして捉える”というブレのない立ち位置と考え方は、「イムズらしさ」と言われる所以であり、福岡を代表する商業ビルとしてふさわしい存在でした。天神の街に果たした役割はとても大きく、それがなくなってしまうのはひとつの時代が終わってしまうようでとても寂しいです。それはイムズを知るみんな同じ気持ちだと思います。

32年間の役目を終える今、これからの天神に期待すること

岩永:イムズが閉館するにあたって、今どんなお気持ちでしょうか?
 
辻:時代というものを発信し、九州中の人にこの場所を活用してもらうという、このビルが背負ったミッションは果たし終えたと感じています。今は「お疲れ様、よくやったね」と褒めてあげたい気持ちです。
 
鯵坂:理由もあって今の形になっているのですが、建築の面では表面的で少し恥ずかしい部分もあります。みなさんの目に触れなくなるのはひょっとしていいのかなという反面、やはり寂しいですね。駆け出しの頃に担当させてもらったし、想い出として小さいカケラくらいはとっておきたいな。

岩永:今イムズには「イムズはおわる。イズムはつづく。」という言葉が掲げられています。次に繋いでいきたいこと、これから天神に期待することはどんなことですか?
 
辻:都心としての機能を発揮していくために、新しい天神を東京や世界に誇れる街にしていこうと、みんなで一緒に考えようとする気持ちを繋いでいきたい。次のビルがすべてを果たすのでなく、天神全体でやっていって欲しいですね。
 
鯵坂:この建物は手作りだった気がします。ぜひ次も記憶に残るような建物になって欲しいし、こだわりを持って取り組んでもらいたい。そうすれば市民のみなさんに親しまれる“次のイムズ”ができたなと思ってもらえるはずです。
 
 
岩永:福岡にはイムズに何かしらの感情を寄せる人が多いと感じるのですが、お2人の話を伺って“その理由”がわかった気がします。本来、ビルに人格はないはずですが、イムズには明らかに人格のようなものがあった。イムズは、そこで働く人と来る人と、人の営みがあってこそ完成するメディアだったんだな、と明確に感じることができました。本日はどうもありがとうございました!
 

近藤茜氏による対談のグラフィックレコード
 

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 今回の対談では貴重なお話をたくさん聞くことができ、また、お二人からイムズへの特別な想いが伝わってきてこちらまで胸が熱くなりました。イムズを今日まで育てたのは、立ち上げメンバーはもちろん、運営スタッフ、テナント、メディア、そして実際にイムズとともに過ごしてきた私たちでもあります。だからこそイムズが残すDNAはなくなることなく私たち一人ひとりの心に宿り、これからも天神の地にも受け継がれていくのだと思います。
 
この夏をもって「情報発信基地」という役目を終えるイムズ。
これまでたくさんの刺激と感動をありがとう。
私たちからもたくさんの愛を込めて、
32年間本当にお疲れさまでしたという言葉を送りたいです。
 


↑辻さん、鯵坂さん、岩永さんを囲んで。今回の対談を企画したイムズの仲野さん(左)とイムズ館長の古場さん(右)

★あわせて読みたい!★
名前に刻まれたコンセプトを貫いてきたイムズ 天神ビッグバンで閉館カウントダウン! https://fukuoka-leapup.jp/city/202101.184

「 イムズ(Inter Media Station IMS)
 
1989年に誕生。福岡の街と人に、常に新しいコミュニケーションを重ねる複合商業施設であり、「情報受発信基地」というコンセプトのもと天神のランドマークとしての役割を果たす。最終営業日の8月31日(火)まで、「おしまイムズ THE LAST SHOW」と題して、地下2階イムズプラザ・3~7階にて「大アーカイブ展」や各店舗で閉館ラストセールを実施。
 
福岡県福岡市中央区天神1-7-11
092-733-2001
https://ims-tenjin.jp 

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編集・ライター
板谷 由美
埼玉生まれ、福岡育ち。OLからのカフェスタッフ、地元タウン誌、編集プロダクションを経て、編集とライターをしています。流れ流れてたどり着いたこの仕事も気が付けば20年…以上!?まだまだ日々勉強です。ときどき飲食店でも働いています。

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