頭山満を知っていますか?
ナウでヤングな若い衆は、ほとんど耳にしたことがあるまいて。いやさ、御年43歳となるワシの世代でさえも、もはや知る人は少ない、歴史に埋もれてしまった人物じゃからのう。令和2年6月末が締切じゃったはずの本稿のタイトルは、実は「頭山満を斬る!」じゃった。だがのう、これを書いてしまうと、逆にガチで林田が斬られそうな勢いでホウボウからチャチャが入ってのう。文字通り、筆が折れてしまったのじゃ。いや、折れたのはワシの心じゃったのかもしれん。しかし、そんなさなか、ふくりぱのgotoコラム担当の編集長がのう。
「おんどりゃ、われ。12月30日までに原稿あげなきゃ洞海湾に投げるぞゴルァ」
と、おちよさんのように迫ってきてのう。これはもう強迫じゃ。刑法に問えば罪になるやつじゃ。そこで、ワシは前に進めば右翼の先生方に斬られ、後ろを振り返れば編集長に斬られるであろうという、まごう方なき禁断の、問答無用で絶体絶命、剣ヶ峰の中の虎口、末法の世のカタストロフィという事態に追いやられてしまったのじゃ。まぁ、人生も40年を超えてくるとこういうこともあろうかというものじゃ。
ということで、相変わらずライトに書き綴っていきますが、今回は福岡の、というよりは「日本の」という冠を掲げたほうが相応しいであろう、戦前の右翼の巨魁、頭山満とその周辺の人々と、その思想をかる〜く(もう一度言おう、かる〜く)文章に綴っていきますので、内容にクレームをつけたくなってしまった方は、ふくりぱ編集部までジャンジャン連絡しないようにお願いいたします。
右翼と左翼?なにそれ。美味しいの?
1990年代に冷戦構造が崩壊してから、もはや命を賭すべき思想はあるのかッ、という状況が続き30年が経とうとしています。こんな中、右翼とか左翼とか言われても、本当に若い人はピンと来ないと思うんですね。何を隠そう、この右翼と左翼を鶏に例えていうと、右翼とは右の手羽先。左翼とは左の手羽先なのであります。やだ、美味しそう。炭火で炙って塩胡椒、最高ッ。というレベルでの把握しかできていない人々も多かろうと思いますので、少し解説しておきたいと思います。
狭義には右翼とは「伝統を重んじる人々」「保守派」、左翼とは「新しい価値を提唱して啓蒙しようとする人々」「革新派」と解釈されていますが、その語義の成立はフランス革命まで遡ります。フランス革命というのは、いうまでもなく人類史に残る大事業で、これによって何ができたのかというと「近代国民国家」が現れたんですね。現代におけるフランスも、アメリカも、そして日本も基本的にはフランス革命時に成立した近代国民国家というシステムを踏襲しています。
ここで初めて国会(国民議会)が開かれるのですが、このとき国会の壇上から見て右側にブルボン王朝を支持する王党派が座り、左側に位置したのがマクシミリアン・ロベスピエール率いるジャコバン党だったんですね。このとき、右翼(王党派)と左翼(革命派)という分け方が世界で初めて、フランスで行われました。
マクシミリアン・ロベスピエール。さすがフランス人。名前がカッコいいですよね。ちなみに、このときロベスピエールが布いた恐怖政治をテルール(テロリズムの語源)と呼び、時の王様、ルイ16世も、その王妃であるマリー・アントワネットもギロチンに掛けられて粛清されてしまいます。
逸れた話を元に戻すと、こうした成立背景を鑑みると右翼とは「現状を維持しようとする人々」、左翼とは「新しい状況を志向する人々」くらいに押さえておけば十分かと思います。
頭山満と亡命者たちが紡ぐ歴史
ドキドキしながら書いています。これは恋?、、、いや、違うな。しかし、頭山満を中心に本稿が進んでいくからには、避けては通れませんのよ、ごめんあそばせ。
簡単に頭山満の人生をおさらいしていくと、本名は筒井 乙次郎。1855年に福岡に生まれているので、明治維新時には推しも押されぬ12歳です。しかし母方の頭山家を継ぎ、太宰府天満宮に参拝したときに、その題字に感銘を受けて「満」の字を頂き、トウヤマ ミツルになってしまいます。やだ、オトジロウ、かわいい、とか思ってたのに。しかし、昔の人はよく改名をしますね。そして通り名が持つ効力というのは絶大なのであり、ロシア革命もウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフが指導者だったら成功しなかったかもしれない。我々がよく知る方の名、ウラジミール・レーニンはペンネームです。
彼は西郷隆盛を終生に渡って敬愛し、西南戦争に参加して共に戦えなかった(西南戦争中は萩の乱に連座して投獄中)ことから、西南戦争後は西郷の後継と目されていた板垣退助とともに自由民権運動に身を投じます。この自由民権運動の流れの中から「玄洋社」を、いまの福岡市中央区舞鶴2丁目8ー12に設立。大アジア主義を掲げつつ、1944年に89歳で亡くなるまで、国内外の革命家、亡命者を庇護していきます。
玄洋社跡記念碑。
頭山満が匿った亡命者のうちの第一級の人物と言えば、やはり孫文ですね。中国革命の父、と言われた孫文は彼のことを最後まで尊敬し、その死の直前まで遠く離れた頭山満に思いを馳せ、その妻である「宋家の三姉妹」の長女、宋慶齢との写真を送っています。実は昭和16年に日中戦争が長期化、泥沼化していく過程の中で日本は中国との和平工作を試みるのですが、この孫文との縁から、
「頭山満が上海まで来るなら会っても良い」
という蒋介石の意向を引き出します。最終的に、この話は東條英機に潰されてしまうのですが、この「幻の和平工作」が実現していれば、戦後の日中関係というものは、また違うものになったに違いありません。
もう一人、頭山の下に身を寄せた亡命者の中で外せないのが、インド革命の闘士、ビハリ・ボースです(「中村屋のボース―インド独立運動と近代日本のアジア主義」中島 岳志 著(白水社)参照)。ボースは日本に亡命したあと、頭山の斡旋で新宿の商店「中村屋」のアトリエに匿われるのですが、そこでボースが伝えたのが「新宿中村屋カリー」なのです。いやぁ、美味しい。大好き。ありがとう、ボース。ありがとう、頭山満。
実は、全く血縁はないですが「中村屋」という屋号と同じ苗字を持つ、福岡で中村学園を創立した中村ハルは、カレーづくりの技法を学ぶために新宿中村屋の門を叩くのですが、文字通り門前払いにされてしまいます。このとき、中村ハルは同郷の頭山満を経由してボースに会い、新宿中村屋での修行を許されています。
玄洋社の系譜と修猷館
玄洋社出身の人物も錚々たる面々です。オッペケペーで一世を風靡した川上 音二郎。日露戦争の影の立役者とも言われる、日本史上、稀代のスパイ活動を成功させた明石 元二郎。政治・ジャーナリズムの世界では中野 正剛、緒方 竹虎。「落日燃ゆ」の広田 弘毅。そして昭和の実業家はみんな大好き中村 天風と多士済々です。
上川端商店街入口の川上音二郎像。
鳥飼八幡宮に隣接する中野正剛先生碑。
天神3丁目にある廣田弘毅先生生誕之地石碑。
特に中村 天風の逸話が象徴的です。中村 天風は修猷館の柔道部のエースなんですが、明治の中頃、すでに修猷館と熊本にある名門、済々黌とは定期戦を行っていたんですね。そこで中村 天風は済々黌の学生を柔道の試合でケチョンケチョンにやっつけてしまうのですが、それを恨みに思った済々黌生が中村 天風に出刃包丁を持ち出して闇討ちを仕掛けます。しかし中村 天風はもはやこのとき柔の達人ですから、済々黌生を返り討ちにして殺してしまう。この事件では正当防衛が認められて刑事罰こそ免れたものの、修猷館は退学になって玄洋社の頭山満に預けられるわけです。
もう何がなんだかわからない状況ですけれども、明治も20年代の話ですので、ほんの20年前までは武士だったという矜恃を持つ学生たちの荒れ具合というのは、現代の我々からは推し量れないものがあります。後に「玄洋社の豹」と恐れられた中村 天風の話も面白いのですが、壮絶に話が逸れていくのを避けるためにこの辺りで留めておきます。
いずれにせよ、この修猷館から玄洋社という流れはゴールデン・ルートでして、旧藩校である修猷館で学ぶ元武士の子弟たちは、西郷隆盛の後継を自認する頭山満が擁する「玄洋社」で、士族の気風を保ちながら「右翼団体」のレッテルを貼られていくのです。
頭山満と植木枝盛 〜玄洋社を再考する〜
この間、「玄洋社を再考する」といった書籍に幾つか当たってみたわけですけれども、どの本を見ても「玄洋社の果たした役割は大きかった」、「玄洋社に戦争責任を押し付けたのは筋違いだ」というものが多いですね。それ自体は、そうなんだろうなぁ、と感じますし、強く肯定したり否定したりするものではありません。しかし、ここでぼくは声を最大限に小声にしてつぶやきますけれど、やはり玄洋社ならびに頭山満は「左翼」だったと思うんですね。内緒ですよ、マジで。
それはやはり、玄洋社の思想の両輪が「自由民権運動」と「アジア主義」であったことから理解できそうな気がしています。
若き日の頭山満の足跡を追っていくと、西郷 隆盛を敬愛しつつも西南戦争に従軍できず、志を板垣 退助に託すべく高知へ。そこで板垣が血気にはやる頭山を諫めて暴発を防ぎ、このとき高知において板垣や中江 兆民と交流することで自由民権運動の精神を学びました、ということになっています。もちろん、この足跡に間違いはないとは思いますし、専門家でもありませんので歴史的注釈をつける気もありません。だが、一つだけ想像が許されるとするならば、高知への遊学中、頭山満の自由民権精神の支柱たりえたのは、植木 枝盛だったのではないかと思うのですね。
かぶき者、植木枝盛
当然の如く館内撮影禁止でしたのでパンフレットだけ。
そんな想像を抱いてしまったが最後、いてもたってもいられなくなったもので、いっちょ土佐は高知の自由民権記念館まで行ってきたのであります。何せ本稿の締切が6月末であったことを思うと、時はすでに師走ですから、もう余裕の日程です。
植木 枝盛はね、もう一言でいうとブっ飛んでいます。一方で、彼の自由民権運動の軌跡を追っていく中で、そうだったのか、と気づかされることは、当初、それが「減税運動」として展開されていくことなんですね。当時の経済状況が、松方財政と呼ばれる経済政策の失敗で壮絶なデフレであった、デフレ下なのに増税するという、なんだかどこかで聞いたような話が明治の初期にも行われていたわけですが、そうした経済学的な話は、いったん捨象しておきましょう。
冒頭にも書いたことですけれども、フランス革命で世界史に何が登場したのかというと「近代国民国家」という、現代の日本にまで連綿と続く国家体制が現れたわけですね。そういう視座に立ってみると、明治維新とはコメ本位制だった封建体制である江戸システムを、近代国民国家に創り変えるという事業であったわけです。簡単にいえば、昨日まではコメを年貢として政府に上納するシステムだったのが、今日からはお金を税金として政府に支払いましょう、というシステムが魔法のように出現したんですね。
ところがお金をベースに経済を回すということを、それまでの日本人は全くやったことがないわけですから、どうやって近代国民国家を運営していいのか、誰も分かっていません。ここが明治政府の面白いところなんですが、維新後、閣僚がみんなで欧米に留学しちゃうというアクロバティックな行動に出ます(ちなみに留守番で残った西郷や板垣が、後に征韓論に敗れて下野することに繋がっていきます)。
まぁ、とにかく上から下までが混乱していた時代。ここで植木 枝盛は「酒屋会議」なるものを主催するんですね。これはどんどん酒税が上がっていく中で、お酒を楽しめなくなっちゃう、という現在でも日本酒消費量1位を誇ると言われる土佐っぽの植木にとっては死活問題のような前提条件があります。よし、いっちょ全国の酒屋が一堂に集まって、政府に酒税を下げるよう圧力をかけたろうやないかい、という会議です。
当然のごとく、政府は減税なんてやりたくありませんから、植木 枝盛に対して会議の禁止を通達します。そうすると植木 枝盛は
「政府によって酒屋会議は禁止されました。とりあえず会議は開催しませんが、大阪に行くのでみんな会おうッ!」
という新聞広告を出します。ところが政府もさるもの、「植木枝盛に会うために大阪へ行くことを禁ずる」というお触れを出します。するとすかさず植木 枝盛は
「政府によって、私に会うことは禁止された。とりあえず、みんな会いにこれないと思うけれど、私は4月8日に大阪で飲んでます」
という新聞広告を出すんですね。政府もお酒を個人的に飲むと言ってることまで禁止令を出せない。そこで、全国の酒屋さんが大阪に飲みに行ったら、偶然、植木枝盛がそこで飲んでいた、という体裁を整えて、酒屋会議は開催されたのでした。
他にも、高知新聞が発行停止命令を受けると「高知新聞のお葬式」をイベントとして開催したりと、現代アートといっても過言ではないような言動の数々が壮絶にパンクなのですけれども、あらやだ、このくらいで許しておかないと、また話が逸れすぎちゃうわ。
植木枝盛の薫陶と玄洋社
実は、この自由民権運動の旗手、植木 枝盛が提唱していたのが「アジア主義」なのですね。植木のアジア主義は、独自の「小国主義+アジア連合論」で、後の大東亜共栄圏とは一線を画すもので、アジア侵略をする欧米を「大野蛮」と断じ、抑圧されているアジアの独立と振興を主張し、戦争にも反対です。日本がアジアの「盟主」になるのではなく「興臣」たれと主張する。つまり、近代国民国家としての日本の国権を拡張するのではなく、平和を志向しながら経済権益の拡張を唱えていくわけです。
西新2丁目にある頭山満手植之楠。普段通り過ぎている場所にも頭山満の足跡が。
そして、実際に頭山満、ひいては玄洋社のアジア主義というのは、植木枝盛の考えに、相当、似通っていると思います。孫文やビハリ・ボースなどの革命亡命者を庇護したのも、後に右翼のレッテルを貼られたという視点からみると、よく理解できないんですけれども、まさに明治左翼の巨魁ともいえる植木枝盛の薫陶があったればこそと想像することが許されるならば、フッと腹に落ちてくる感じがします。
自由の風は福岡から吹く
そして何といっても見逃せないのは、玄洋社の前身である向陽社と、その人材育成団体である向陽義塾の立ち上げに際して、頭山満はメインイベントである開塾記念講演のスペシャルゲストとして植木 枝盛を福岡に招聘しているわけです。
植木 枝盛は、当時すでに
「われ学ぶ所なし。ただ植木枝盛を以て植木枝盛を学ぶのみ」
なんてことを言ってますからね。まぁ割り引いてみてもかなり嫌なやつだったと思うのですが、その理論的支柱は、当時すでに完成していたとみて良いでしょう。この福岡での向陽義塾の開校式での演説内容は詳細は残っていない(もしくは見つけられていない)のですが、ぼくの想像の中では、減税を主軸とした自由民権運動についてと、アジア主義について話したであろうことは疑いないのであります。
また、植木枝盛は「民権数へ歌」というものを作詞しているんですが、この福岡滞在中に、なんと福岡バージョンを作成しています。
「九ツとせ(本家の数え歌の九番の歌詞を改変した)、ここは西海福岡よ、自由の風が吹くぞいな、このうれしさよ」
というのがそれで、この歌は当時、九州全域で大ヒット曲となったそうです。
民権数へ歌オリジナルバージョン。残念ながら福岡バージョンは見つかりませんでした。
すっかり「頭山満を斬る」から「植木枝盛先生万歳」に趣向が変わってしまった感もあるのですが、結局、何が言いたいかというと、右翼を「現状を維持しようとする人々」、左翼を「新しい状況を志向しようとする人々」と定義するのであれば、やはり頭山満ならびに玄洋社を「戦前日本の右翼の巨魁とその団体」とレッテル貼りするのは、いささか強引であるようにも感じられます。
その思想的源流には、自由民権運動があり、アジア主義があり、そして植木枝盛がいる。このインプリケーションは、フランス革命によって誕生した「近代国民国家」というシステムを取り入れたばかりの日本において、それを遥かに飛び越えてしまった「平和的に連合するアジア経済圏」という構想まで含んでいるんですね。
はっきり言って100年早いですよね。そして、来年は2021年、彼らがアジア主義を唱えてから100年以上の時が経過しています。どうもこの近代国民国家というシステムが、先進国において、あのアメリカも含めて機能不全に陥り、世界中がキナ臭くなっているいま、ここ西海福岡の地から、自由の風が吹くぞいな、という気分になってみるのもええじゃないか、ええじゃないかと感じいってるのはぼくだけなんですけれども、さて、みなさん、いかがでしょうかね?。
とにかく、これでぼくの命は編集長に奪られずに済みそうな気がしています。嗚呼、年を越せるぜよ。コロナ下の不自由なる世界の片隅から、アジアに自由の風が、ここ福岡から吹くことを祈念しつつ、またお会いしましょう。再見ッ!。
博多区千代4丁目にある崇福寺には福岡藩主黒田家墓所が隣接しており、頭山満、高場乱、来島恒喜とそうそうたる顔ぶれのお墓があります。
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カンゼン 刊