大学をドロップアウト後に、3年のブランクを経て得た覚悟と目標。
ーー永田さんは福岡市東区出身。1984年に九州造形短期大学デザイン科(インテリアコース)卒業後上京し、バブル期の東京で様々な商業施設の装飾デザインや文化催事の会場デザインに携わりますが、最初からデザイナーを目指していたわけではなかったそうです。
お話を伺った永田雅一さん、自身が営む畑にて。
永田さん
その後、家を出て安いアパートを借り、日雇いの肉体労働で2年間その日暮らしの生活を送っていました。そんな時に、福岡市内の看板屋さんに長期間派遣されることになり、その会社で出会ったデザイナーの仕事がかっこよくて興味を持ったんです。
将来こうなりたいという具体的な目標をもたずに大学に入り、ギャップを感じ大学を辞めた自分が、はじめてデザイナーになりたいと思い、親に頭を下げデザイン学校に行かせてもらうことになりました。
平面、グラフィック、写真、クラフトなどの学科がある中、デザイン科のインテリアコースを選んだのは、平面より立体的なものをつくる方が自分に合っている気がしたからです。卒業後は、東京志向が強かったので、東京の会社に就職しました。
サイン計画、商業施設のサインや文化催事、イベントのデザインなどに関わることが多く、バブル時代だったので予算のかけ方もすごくて派手でした(笑)。1987年に会社を辞めフリーランスになりましたが、その後も東京で展示会ブースや販促ツールのデザインを中心に活動していました。
バブル崩壊後に帰福、生まれ育った福岡・天神の街をデザインした23年間。
ーー東京を中心に活躍していた永田さんですが1997年に福岡に戻り2020年までの23年間、天神コアやソラリアプラザ、インキューブ、岩田屋など福岡を代表する様々な百貨店や商業施設のディスプレイデザイン(※)を中心に活動します。
※ディスプレイデザイナーとは、百貨店・商業施設・店舗・テーマパーク・イベント会場などの展示空間を演出、デザインする仕事。限られたスペースの中で商品を魅力的に魅せ、伝えたい世界観を作る。
永田さんが手がけた、天神のディスプレイデザインの前で。
永田さん
福岡はちょうど岩田屋ジーサイドができた頃ですね。バブル崩壊後なのに東京と違って福岡がとても景気がよかったこともあって、福岡の会社に縁があり戻ることになりました。妻は東京生まれ東京育ちなんですが、『山が見える!』と最初とても感動してました(笑)。
僕は東京時代、最初の会社の頃は百貨店の仕事が嫌で、ディスプレイデザインも百貨店も嫌いだったんです。もちろん今は好きですが(笑)。福岡での仕事がディスプレイデザインの仕事で、更に気持ち的にも東京を引きずっていたので、帰福後1年はノイローゼになりかけました。
でも、自分で“このままじゃだめだ、いじけていたら誰も幸せにならない”と思って、とにかく斜に構えるのをやめようと思い、気持ちを切り替えてみんなの中に入って行くようになってから、仕事も気持ちもうまくいくようになってきましたね。
リーマンショックを機にデザイナーとは全く違う農業の世界に魅了され、週末農家へ。
ーーディスプレイデザイナーとして、天神の街をデザインし装飾してきた永田さんですが、リーマンショックを機に農業に携わるきっかけは奥様がみつけてきた福岡市とJAがはじめた新規就農者を育成するための研修カリキュラム『ふくおか農業塾』で、塾生に選ばれたことでした。
永田さん
そのプロジェクトは、その頃社会問題になっていた休耕地を活用させる為新規で農業に就農する人を、福岡市とJAが実習をしサポートしてくれるもので、2年間の実習後は農家の資格を取得でき農地を借りることができるようになります。
今思うとよく通えたなと思いますが2年の間、月に2回丸一日会社を休んで畑に通い、自分で植え付け、収穫するんです。そしてある時、一日中土をいじっていると、とても気持ちよくなっている自分に気付いたんです。
それからいつの間にか月2回の実習に行くことが楽しみになっていました。デザイナーの仕事とは全く違う世界でしたが、週末畑を訪れる度に土の感触、匂い、雰囲気を感じてどんどん農業を好きになっていたんだと思います。そして農業塾を卒業してJAの仲介で畑を借りることになり週末農家になりました。
“カラフル”をコンセプトにした野菜の組み合わせ。デザイナーだからこそ、農業に今までと違った視点で新しいカタチを。
ーー2020年3月、永田さんは天神コア閉館をひとつの区切りとし、ディスプレイデザインの仕事を卒業することに。4年前から務める福岡デザイン専門学校の非常勤講師と営農をメインに切り替えます。永田さんがこれまでを振り返り思う、これからの生き方と働き方とは?
(左)ディスプレイデザイナー時代のカラフルさを、(右)農作物に取り入れカラフル野菜をつくる永田さん
永田さん
ですが、地方の事業だとたくさん人を補充して活性化していけないので、なかなか若い人にチャンスがいかない。ディスプレイデザインそのものの将来性を考えるようになり、一区切りつけたいなという気持ちがあって、天神コアが閉館することをきっかけにしてしまおうと自分で決めたんです。
デザインって正解がないし、イメージをつくるものだと思うんです。でも野菜は、大きさや美味しさなど冷酷に結果が出て、答えが出る、そういう意味で農業ってごまかしがきかないから面白いですよね。そこも農業に魅力を感じた理由のひとつです。
これからはリセットできる力が大事だと思っています。20代、30代の蓄えがあればリセットしても大丈夫なんです。ですが、何もしていなくて蓄えがなければリセットできません。自分の人生を振り返ってみても、適応力、受け入れる自由さがあったのかなと思っています。
農業は作るよりも売る(きちんと利益をあげる)方が圧倒的に難しいと思います。そこでデザイナーならではの着眼点で農業を見ることができるんじゃないかと思って、同じ品種でも例えばオレンジ、パープル、黄色の芋など違いがあるものを、カラフルな組み合わせで野菜を売ってみたら好評だったんですよ。
「三種のカラフルしゃがいも」「ゆめいろハクサイ」など永田さんの野菜は、色が特徴に
フランスの野菜市場ではカラフルで品種も豊富で、見るだけでも鮮やかな野菜を量り売りしている、あんな市場が日本でもできるといいですよね。農業の世界も、みんなで同じものを作るのではなく、少しずつ多様性を取り入れて変わっていけるんじゃないか、別業界を経験した自分だからこそ今までと違った視点で新しいカタチをつくることができるんじゃないかと思っています。
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永田さんは、デザイナーという職業をみつけるまで少し回り道をして学校に入り、最初は嫌いだと思っていた百貨店のディスプレイデザインで23年間天神の街を彩り、植物を育てることに興味もなかったのに農業にハマるなど、時代に合わせて常に柔軟に固執せず、チャレンジをチャンスだと思って受け入れてきたそうです。
デザイナーから農家という全く違った業種に転身したように見える永田さんですが、デザイナーとしての視点から新しい農業のカタチを切り開いていこうとしているそうです。どんなビジネスでも違った視点や経験が活かされることを、農業という永田さんの新たなチャレンジがおしえてくれそうです。
永田雅一(ながた まさかず)
昭和35年8月23日生まれ。福岡市東区出身。1984年九州造形短期大学デザイン科(インテリアコース)卒業。卒業後上京し株式会社アルス東京店入社。商業施設サインデザイン(横浜そごうサイン計画など)、百貨店装飾デザイン、文化催事(そごうグループ「大バチカン展」)会場デザインなどに携わる。1987年退社後フリーランスに。展示会ブース・SPツールデザインを中心に活動。1995年㈲スパイキー設立に参加し、展示会、イベントの規格、設計、制作などに携わる。1997年福岡に戻り吉忠マネキン株式会社福岡店に契約社員として勤務。百貨店のディスプレイデザインを中心に活動。天神コア(WDと外壁イルミネーション)、ソラリアプラザ(WD)、鶴田ダム展示館改装計画、ソラリアステージインキューブ(サイン改装計画)、天神地下街(シーズン装飾)、インキューブ(ウィンドー・館内装飾)、KIGS「東田ものがたり」会場デザイン、岩田屋Z-SIDE(ウインドー・館内装飾)、山形屋(ウィンドー・館内装飾)などを担当。2016年4月より福岡デザイン専門学校で非常勤講師(ディスプレイ専攻)を務める。JCD(一般社団法人日本商環境デザイン協会)正会員。2020年4月吉忠マネキン株式会社福岡店を退社、フリーランス(営農メイン)となる。