還暦にもなるとね、いろいろと出来ないことがわかってくる。そこそこの人生は、そこそこの能力だったからだと諦めもつく。そうやって“広く、浅く、深いフリ”が功を奏して引き出しだけが増え続けた。その無駄に多い引き出しを引け散らかして欲しいというご要望に応えてみることにした。
“御託を並べる大人”にはならないぞ!!
『STUDIO VOICE』(スタジオボイス)は、1976年9月に創刊された日本の月刊カルチャー雑誌である。学生の頃から愛読していた。要は、ワタシは、生粋の田舎者のサブカル野郎である。オーバーカルチャーに楯突いて、50年近くの月日を経ている。
いまから思うと、サブカル趣味なんて、メインを闊歩できないコンプレックスでしかない。言い換えるとメインであることはカッコ悪いと洗脳された信じるものがないオッさんたちに、本流のカルチャーは創造できない。日本が築き上げた成熟社会とは、未熟な大人達でも生きていける社会なのだなぁとつくづく思う。
しかし、一方で、コロナ禍の中、毎日のようにワイドショーでは、子供だましの発言と行動を繰り返す幼い大人達が大きな顔をしている。御託を並べられるようになることが大人。御託に守られることが大人。そう教えられてきた未熟な大人達が闊歩している。これには、目を瞑ってはおけない。
いつからかメインかサブカルか?オーバーかアンダーか?その意識自体がダサいことの対象となった。よくよく見ると、メインカルチャーなんて、サブカルの総体みたいなものとして動いている。NHKでも朝からSEXを話題にするようになった。教育テレビのコンテンツは、みんなサブカルの香りがする。いまテレビ局や新聞社で偉そうにふんぞりかえってるオッさんたちも、サブカル野郎だったのだ、きっと。
ボブ・ディランは、「違法ダウンロードによって、音楽の価値を軽んじられていることをどう思いますか?」という問いに『元々価値なんて無いんだから問題ないじゃないか。』と答えたという話がある。これこそ一流の大人だろう。ワタシがサブカル雑誌から学んだのは、こういう“御託を並べる大人”には、死んでもならないぞ!!という心意気である。
企画書とは、御託を書き並べることではない。
ワタシは、いつまでも吠えていたい。
「サブカル野郎」の「未熟者」であるから仕方ない。
いつまでも「風に吹かれて」生きていたいと思う。